中小企業の経営相談を受けていると、ヒトや組織の悩みを聞くことがありますが、こんな悩みはありませんか?
- ベテラン社員しか仕事が分からない
- 社長がいないと意思決定できない
- 拠点が増えて統制が取れない
- マニュアル化すると現場が動かない
これら「属人化との戦い」は、現代の中小企業だけの問題ではありません。日本という国家そのものも、かつて同じ課題に直面していました。その代表例が、701年に制定された「大宝律令」です。この記事では、日本史を題材にしながら、組織化のステップを見ていきたいと思います。
属人化そのものは「悪」ではありません。むしろ会社の創業期は、属人化が強みになります。例えば、社長の即断即決、ベテラン社員の経験、阿吽の呼吸、暗黙知、柔軟な現場対応がありますが、これらによって、小回りの利く経営ができますし、古代日本も同様でした。
| 社員数 | 起きやすい問題 |
|---|---|
| 1〜10名 | 社長依存 |
| 10〜30名 | ベテラン属人化 |
| 30〜50名 | 管理職不足 |
| 50〜100名 | 制度疲労 |
古代日本は属人的な「豪族連合国家」だった
大宝律令以前の日本は、「ヤマト王国+地方豪族」による連合国家でした。地方は豪族ごとが支配し、税も軍も運営も有力者の力に依存していました。つまり、地方ルールがバラバラ、人によって運営品質が違う、家柄と経験が中心、標準化されていない、という状態です。まさに、中小企業の創業期の状態です。
| ヤマト王権 | 中小企業創業期 |
|---|---|
| 豪族との関係性 | 創業メンバー |
| 空気感で統治 | 阿吽の呼吸 |
| 属人的に判断 | 社長の即決 |
| 柔軟に対応 | 小回りが効く |
この段階では、属人化はむしろ強みであり、ルールに縛られないからこそ、柔軟に・スピーディに対応できます。
白村江での敗戦〜危機到来〜
663年、朝鮮半島百済からの救援を受けて、新羅・唐連合軍と戦った「白村江の戦い」では、百済・日本(倭国)連合は大敗します。ここで日本は初めて、このままでは新羅・唐連合軍に飲み込まれる危機感を持ちます。
これは中小企業でいうと「市場環境が変化し大手が参入、技術革新やグローバル競争が始まった」感覚です。これにより、従来までの感覚・気合い・現場力だけでは乗り切れなくなり、競合に負けない仕組み化を推し進めなければ生き残れないことを痛感します。
大宝律令を制定〜標準化・仕組み化・組織化〜
そこで刑部親王や藤原不比等により整備されたのが、大宝律令です。大宝律令とは、大宝(年号)の時代に制定された律(今でいう刑法)と令(今でいう「行政法」「民法」「訴訟法」「税法」などや戸籍管理、官僚制度、軍備)のことです。
中小企業に置き換えると、就業規則、経営管理体制(予算管理、管理会計、会議体)、組織図、職務分掌、人事制度(等級表、目標、評価、給与体系、福利厚生)、稟議制度などを整備する段階といえます。社長1人が考え・指示する経営体制から仕組みで経営する体制への移行といえます。
制度疲労〜組織の硬直化からの苦悩〜
大宝律令により「土地はすべて国家のもの(公地公民)」「農民に田畑を貸し税を徴収(班田収受)」が成立し、中央集権制で地方に国司を派遣することで安定期を迎えます。他方で次第に、副作用ともいえる組織の柔軟性を失っていきます。
ルール主義 ▶︎ 中央から例外を認めない運営
国家安定 ▶︎ 人口増加 ▶︎ 田畑不足(開墾需要拡大)
重税苦 ▶︎ 逃亡農民・耕作放棄地が増える
中央から指示 ▶︎ 公地公民制度で開墾コストを取りたがらない(死後返還では投資回収期間がない)
三世一身法
これらの組織の硬直化を打破するために、三世一身法(723年)により、3代まで私有を認めることで開墾インセンティブを導入し部分修正を行いました。しかし結果としては、3世代後に返還制度があることで長期投資に繋がらない、返還後再び荒廃するなどで抜本的な解決には至らなかった。
墾田永年私財法
開墾コストを取って投資した人に私有財産が認められることで、開墾が進むようになり短期的な開墾供給は改善しました。他方で公地公民との制度矛盾から律令制度を揺るがす統治崩壊が始まります。
荘園制度
中央貴族や寺社の土地は無税であったことから、次第に特権階級へ開墾地を寄進して重税から税回避する動きが始まります(荘園化)。このように大物公家や地方豪族、寺社が太って国家が削られるようになっていくのです。
このようにコンプライアンスや監査制度、賞罰制度が機能しなかったことから、中央政治は腐敗していきます。大宝律令制定以後修正しながら国家運営の下支えにしてきましたが、逆に制度が悪用されるようになり国家の成長を止めてしまったのです。
武士政権の登場〜現場主義への回帰〜
そこで弱体化した中央政治から地方を救うヒーローとして登場するのが土着豪族の武士です。荘園主と国司の対立、領地争い、反乱者から自分達の土地を守るために武装し、御恩と奉公の主従関係で組織化していきました。
武士は中央がやるべき統治実務_治安維持(警察)、軍事行動(軍)、紛争解決(裁判)、徴税(税務)を次第に担うようになり、現場実務を担っていきます。朝廷制度のなかで統治した平氏と源平合戦を経て、鎌倉幕府を設立した源氏の時代になっていきます。企業でいえば、本社が頼りないので支社の有力者で経営を担うようになっていったという感じで、属人化回帰といえるかもしれません。
鎌倉幕府(現場主導)
関東の武士ネットワークで成立し、朝廷は形式的に残ります。企業でいえば支社同盟の経営体制が成立し、旧経営陣も残っている二重構造。御家人(支社責任者)を任命し、御家人との主従関係で統治する統治構造。領地が報酬であり、与える土地がなくなっていき次第に球心力を失っていきます。
承久の乱(1221年)では、後鳥羽上皇が北条執権から朝廷権力を取り戻そうと争いましたが、幕府勝利。(支社同盟>旧本社)
元寇(1274、1281年)では、強力な外敵から日本を守れたことで、地方武士の国家意識が高揚します。他方で、防戦であったことから恩賞にする土地獲得がなく、十分な報酬が得られないことで地方武士の不満は募っていき、離反から幕府は滅亡します(1333年)。
室町幕府(弱い本社・強い支社)
恩賞としての土地が足りない問題を新たな武家リーダーの足利尊氏は、土地そのものではなく、支配権・徴税権・軍事権の権利を拡大するとして期待を集めました。このようにして1336年に京都に幕府成立。守護(支社長)を統合し、守護が統治実務を担い、幕府は調整役を担う構造にしました。企業でいえば支社長会議の議長というイメージです。
ただし、1392年までは足利尊氏の北朝と後醍醐天皇による南朝の二重体制で権力闘争を経て、3代足利義満時代に合一されています。
応仁の乱(1467年)では、室町幕府の将軍後継問題や、有力管領家・守護大名の家督争いなどが2大勢力に分かれて11年も争いました。企業でいえば本社支社を交えた2大派閥で争いで、勝者不明なまま終焉しました。
戦国時代(支社が独立)
守護から戦国大名となり、各地でフランチャイズ体制から独立していくような状態を迎えます。血統による封建統治から実力主義の時代で、その覇者として豊臣秀吉が登場します。秀吉は源氏の流れを汲む血筋でないことから武家の棟梁を示す将軍職ではなく、公家・神社を含めた統治者である朝廷官職の関白で統治しました。(各地域の独立国を統括する統括本部や持ち株会社のようなスタンス)
戦国時代は、配下武将を大名に昇格させたり領地を与えたりして褒美を与えることを原動力にして統制してきましたが、全国統一後には新たな褒美フロンティアを求めて朝鮮出兵を行います(1592年、1597年)。武士同志の対立エネルギーを外に向けて新たな土地獲得を狙いましたが、結果的に費用対効果の合わない争いでした。(徳川家康は後方支援や国内防衛を盾に渡航せず、力を温存)
支社連合の統括本部長の夢に近い海外進出は、現場の疲弊感により結束が弱体化しました。本部長個人のカリスマ性についていた配下の者は、亡き後、制度や仕組みより、次なるカリスマ的リーダーを求めるようになっていきました。
江戸幕府(再び制度化)
関ヶ原の戦い(1600年)を経て江戸幕府が成立します。家康は攻める組織から守る組織へ転換させるため、幕藩体制・参勤交代・武士の官僚化・鎖国・朱子学・身分固定などを施し、争いのない安定社会の土台をつくりました。
8代将軍吉宗時代には、幕府財政と幕府権力の強化を目的に「享保の改革」を実施(1716年)。武士人口増加による固定費増加へのコストカット、新田開発による収入増加、裁判基準の法令集制定で標準化(公事方御定書)、能力人事(足高の制)、広く意見を募る目安箱の設置などにより、財政改善や現場感覚のある組織への立て直し、役職に見合う処遇を実施しました。
老中田沼意次の時代には、貨幣経済・商品経済の発展を受けて、積極的な商業の活性化による財政立て直しが行われました(1772年)。株仲間の奨励、銅輸出による外貨獲得、蝦夷地開発しロシアとの交易計画などで経済成長を求めました。商人は富みましたが、農民・下級武士はその恩恵を受けられない格差・歪みをもたらした。
| 田沼政治 | 寛政の改革 |
|---|---|
| 商業重視 | 農業重視 |
| 成長路線 | 安定路線 |
| 市場活性化 | 規律統制 |
| 民間活力 | 官僚統制 |
| 攻めの経営 | 守りの経営 |
老中松平定信時代には、田沼時代に緩和された政策を正し、吉宗の頃の農回帰を目指す「寛政の改革」を実施(1787年)。武士等に贅沢禁止、農村重視政策、旗本・御家人の借金棒引き(棄捐令)、朱子学強化によって、幕府の威信を回復させましたが、商業経済に傾倒していく時代の流れは止められなかった。
老中水野忠邦の時代には、深刻な飢饉や社会不安の中で幕府権力の絶対化と財政強化を目指して「天保の改革」が行われました(1841年)。時代の流れに抗おうと物価高対策として株仲間の解散や上知令、農村へ強制帰郷させる人返しの法などで、現場の理解なくトップダウン式で進められたのでうまくいかなかった。
江戸後期には、ロシアの通商要求、アメリカ捕鯨船の通商要求、イギリスによる清植民地化、ペリー来航など、強力な技術力・軍事力を背景に欧米が東アジアへ触手を伸ばしてきていました。江戸幕府は、これら列強の軍事力を理解しており、混迷を続けます。
幕府は朝廷と諸外国の主張に挟まれながら、開戦を避けるため治外法権、関税権のない不平等条約を締結します。攘夷派と開国派に国論は二分しながら安政の大獄や桜田門外の変などを経て、朝廷は薩摩などを頼り、討幕運動に突き進んでいきます。
明治維新(近代化へ再構築)
朝廷と薩長土の雄藩が中心になって、天皇を中心とした新しい中央集権国家の仕組みが再構築されていきました。1873年には岩倉視察団が結成されて欧米12カ国、1年10ヶ月におよぶ視察旅行で近代国家の原点となる情報収集をし、その後に近代国家の骨格を紆余曲折・二転三転しながら再構築していくのです。
まとめ
日本国家の歴史から組織変遷についてみてきましたが、大きく抜本的に舵を切る時には白村江での敗戦、ペリー来航など外圧を必要としてきました。しかし、そのなかでも紆余曲折・二転三転・反対に振れながら、ボトムアップ型で修正してきた日本人の強さがあります。公家と武士、朝廷と幕府、商業と農業など2軸対立を経ながら結果的には「なるようになる」という風に来たようにも感じました。
それでは属人的な業務から脱却できていない中小企業が、まず対応すべきことは何でしょうか?
中小企業が最初にルール制定し標準化すべき5つ
- 見積基準:会社で一定のルールに基づき統一された基準で見積書を作成し、上長が承認してから、対外提出する。
- 管理会計:全社的な予算計画を細分化(拠点別、取引先別、商品別、担当者別)などでできている・できていないが確認できるようにする。
- 顧客情報共有:グループウェアなどで誰でもどこからでも、今までの取引記録などが確認できるような体制にする。
- 評価軸:スキルマップとコンピテンシーを整理し、このグレードであればこれくらいのスキルなどが必要がわかる状態にする。
- 権限基準:係長・課長・部長の仕事、権限、責任を整理し、決済権限がわかるような体制にする。
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